【96】 明治村犬山城 桜2006              2006.04.08
  
聖ヨハネ教会堂
 インターネットで調べたら、明治村の桜が満開とある。天気も良いし、明治の桜(?)を訪ねてみようと思って出かけてみた。


 森の小径から 聖ヨハネ教会堂を望む →

                 

逍遥の小径
← 逍遥の小径を
 抜けて2丁目へ

                               章くんは、明治村が好きである。近代国家日本形成の息吹が感じられ、人々の盛んな意気込みが息づいている明治という時代に触れながら歩くことができること、そして、立ち並ぶ建造物には、前時代的な雰囲気が色濃く残るこの時代のものとして、近代では不可能な丹精が込められているからである。コスプレ(?)衣装のご婦人たち
                  


          コスプレ(?)衣装をまとって記念写真 →


 こういうの 流行っているのだろうか。村内のあちらこちらで、
矢絣に紫袴や鹿鳴館ドレス姿で歩くご婦人たちを見かけた。

             
大阪の呉服座(くれはざ) 


← 呉服座(くれはざ) 


 大阪府池田市にあった。ここでは地方巡業の歌舞伎や、壮士芝居、新派、落語などが演じられたほか、演説会も行われていたらしい。
                                                          
乗合馬車 1回500円           












  明治時代の代表的な乗り物「乗合馬車」→
     馬の広場を2回まわって500円





 明治村で、章くんが好きな建造物ベスト5は、
@ 帝国ホテル、 東京都千代田区内幸町、 大正12年(1923)
A 聖ヨハネ教会堂 京都市河原町通五條、 明治40年(1907)
B 二重橋飾電燈、  東京都千代田区皇居内、 明治21年(1888)
C 森鴎外・夏目漱石住宅、 東京都文京区千駄木町、 明治20年(1887)頃
D 蒸気機関車(SL)、 北門「名古屋駅」と村の中央「東京駅」間を5分で結ぶ。
 帝国ホテルは明治の建築物ではないけれど、関東大震災に遭っても窓ひとつ割れなかったというし、聖ヨハネ教会堂は封建時代の色濃い時代に在って、異国の文化に触れる扉であったように思う。明治の豊かさを象徴する二重橋飾電燈、文壇を代表する巨人たちの森鴎外・夏目漱石住宅、そして、黒い煙を吐いて文明開化を引っ張った蒸気機関車(SL)。みんな、力強く知的でオシャレな、明治という時代を背負うものたちである。



 午後3時過ぎ、明治村をあとにして、犬山城へ向かう。城郭としては、わが国で第1号の国宝指定を受けた、創建当時の姿を今に伝える城であり、桜の名所としても近隣にその名を知られている。
木曽川堤防からの犬山城
 
← 木曽川河畔より、城山を望む ↓
木曽川堤防からの犬山城
















 犬山城は戦国時代の半ば、1537(天文6)年に築かれ、当初は織田家の守城であったが、関が原の戦いのあと1617(元和3)年尾張家の徳川義直の付家老であった成瀬家がこの城に入り、犬山はその城下町として発展してきた。木曽川に面する標高八十メートルの三方断崖の丘上に本丸を置き、南に杉の丸、縦の丸、梅の丸、松の丸と階段伏に郭が連なり、さらに三の丸と外方に惣構えをもつ、戦国様式の城である犬山城天守閣
 明治の廃藩置県により廃城となり、地震などによって荒れ果てたが、1895(明治28)年、修復や保存などを条件に旧藩主成瀬正肥(成瀬家九代)へ無償譲渡され、多くの犬山町民の浄財によって修復。だから、犬山城はわが国で唯一の個人所有の城である(近年、社団法人化されたとか)。

      桃太郎神社                  
          天守閣 →


← 城近くにある桃太郎神社                                                       



                               
 ↓ 城山山麓の山桜
城山山麓の山桜
                







 桃太郎伝説を今に伝える「桃太郎神社」の境内には、桃型の鳥居がある。ここをくぐれば、悪は去る(猿)、病いは去ぬ(犬)、災いは来じ(雉)という神秘の力があるとか。










 夜桜は、名古屋城へ…。

ライトアップした名古屋城 では、名古屋城の成り立ちを一席…!
 名古屋城の前身は那古野城…。この城の築城は1521(大永元)年頃、築城者は駿河の今川氏親(義元の父)である。この頃の今川氏は、三河・遠江に強大な勢力を有し、尾張にも度々侵入している。那古野城は尾張進出の前衛拠点として築かれた。

夜桜と名古屋城


        
 氏親は、一族の氏豊をこの城に入れて城主とする。だが氏豊は戦いに弱く、1532(天文元)年、当時台頭してきた織田信秀によって城を奪われてしまう。
 信秀は1534年(天文3)年5月、信長が生まれると、赤ん坊の吉法師(信長)を那古野城主とし、自身は古渡城(中区)を築いてそこへうつってしまった。信長は幼い頃から城主として、自由奔放に育った。信虎が没すると、1555(弘治元)年、信長は清洲城に移り、城は伯父の織田信光となったが、まもなく廃城となる。


 関が原の戦いののち、1610(慶長15)年、大阪城攻略への一石として徳川家康は、尾張の地に大規模な城を造ることを決めた。築城にあたっては、従来の清洲城では規模が小さく、水害の恐れがあったので、那古野の地が選ばれ、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、黒田長政、蜂須賀至鎮、鍋島勝茂、浅野幸長、毛利秀就など、北陸、四国、中国、九州の諸大名…豊臣恩顧の諸藩に命じて工事をさせた。花見の宴で賑わう城内
 完成した城は家康の九男義直に与えられ、徳川義直は尾張徳川家の祖となったのである。


 明治維新のあと、名古屋城は国宝に指定されるが、戦災で焼け、昭和34年に鉄筋コンクリート製の天守が再興された。



 夜になっても、暖かい日であった。栄へ出て、何か食べよう。



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